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その人は尋ねる。
「あなたは良く働いたのでお金をあげましょうか。」
僕は答える。
「要りません。」
するとその人は尋ねる。
「あなたはよく見、よく聴き、よく愛でましたので、この花をあなたにあげましょうか。」
僕は答える。
「要りません。」
その人は続けて尋ねる。
「あなたは孤独を良き友として過ごしましたので、月をあげましょうか。」
僕は答える。
「要りません。」
とうとうその人はこう言う。
「あなたはその気難しさのために多くの親しき人を捨てました。あなたには何も残りません。」
僕は答える。
「構いません。」
続けて僕は言う。
「ただ、たったひとつだけ頂きたいものがあるのです。」
その人は尋ねる。
「それはいったい何ですか。」
僕は静かに、しかし身体中の力を込めてこう言う。
「あの人が欲しいのです。」
するとその人は目を開いて言う。
「あんな不完全なものを?」
僕はただ静かに語る。
「僕に何も残らないのであればお金は無用です。そして私が花を愛でたのは、あの人の美しさを花の中に見たからです。月を見上げたのは、あの人への憧れを月の中に見たからです。あなたにとってあの人は、花や月のように完全なものではないでしょう。美しくもない。でも、だからこそ私はあの人が欲しいのです。」
その人は少し意地悪に微笑んで言う。
「あの人でなければならない理由などないでしょう?不完全である中にも他にもっと美しいものがあるはずですから。」
僕はきっぱりと言う。
「いいえ、ありません。」
怪訝な顔をするその人に僕はゆっくりと語りかける。
「僕にとって、不完全なものの中で最も美しい人があの人なのです。そして、同じく不完全である僕を最も美しくしてくれる人があの人なのです。僕が不完全であるからこそ、あの人が欲しいのです。あの人でなければならない。完全なるあなたにはわからないでしょう。」
その人はすっかり見下すような顔で僕を見つめる。どこからともなく風が吹いてくる。その人は言う。
「あなたの望みを叶えるのはたやすいことです。私が手を下すまでもない。誰もが不完全な誰かとともにある。そして不完全なまま生を閉じる。あなたはそれで良いと?」
僕は言う。
「いいえ、そうではありません。あの人と私がともにいればもはや不完全ではありません。花や月のように完全になれるのです。」
その人は大きな声で笑い、急に真顔になって言う。
「なぜそうだとわかるのですか?いや、なぜあなたに完全なものと不完全なものを見分けられると?不遜であること甚だしい。」
いつの間にか怒りに満ちている。
僕は目を見開いて言う。
「完全なるあなたには決してわからないことです。私はわかるとは言っていない。そうなると言っただけです。私にわかるはずもない。不完全なのですから。それでも、そうなると信じて選ぶのです。私たちのような者にできることはそれしかない。」
その人が穏やかな表情に戻って言う。
「いいでしょう。あなたの望みを叶えます。私には、その人とあなたが不完全なまま暗闇に落ちていく姿しか見えません。それでも良いのですね?」
僕ははっきりと答える。
「結構。必ず完全になります。私はそれを信じていますし、あの人も信じています。それ以上に必要なものは何もありません。」
その人が「よろしい」と言った次の瞬間、僕はこれまで見たことない黒い闇の中に投げ出される。どちらが上か下か、右か左かもわからず、自分が飛ばされているのか静止しているのかもわからない。しばらくすると深く深く潜っている感覚だけはわかるようになる。僕は目を閉じているのか瞬きしているのかもわからない。時の流れすらつかめなくなって、もう何万年も経っているような、それでいて現在がずっと続いているような感じだ。
僕の手に懐かしさが触れる。昔からそこにあって、一度も離れたことがないような温かさだ。とうに耳は聞こえなくなっているが声がする。
「あなた、あなた」
声は僕の背骨の方からだ。
「あなた、あなた」
同時に懐かしい匂いがする。
気づけばそれは僕の声であり僕の匂いだ。僕が感じるのは世界の手触りであり、世界の始まりであり、世界の終わりだ。あの人がともにあることを知って僕は長い長いため息をつく。生まれてはじめての、そして最後の、一呼吸。
風が吹くとともに凪いでいる。止まりながら揺れる花々の中に鳥が舞っている。はるか彼方から月が照らす。
不完全なままであなたは何よりも美しかった。でもこれはなんだろう。もう美しいという言葉も忘れようとしている。
愛しい思い出たちが消えて
あなたと僕の時が止まり動き始める。