月と猫(モチーフ)

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Photo credit: lord_yomismo via Visual Hunt / CC BY-NC-SA

 

 

さまよっていた。

幾晩も真っ黒い幕をかきわけるように僕は歩いていた。

怖くはない。

僕は傷つかない。

どんな風にも向かい、どんな露も払った。

悪意の影が忍び寄っても僕が睨めば向こうから逃げて行った。

 

 

 

ある夜。

あたたかそうな光の漏れる窓を見つけた。

光を後ろに女の人の影が見える。

どうやら空を見上げているらしい。

視線の先に白く丸い月があった。

僕もしばらく月を見る。

その人が動く。

窓を閉じようとする。

なぜだか僕は窓に駆け寄る。

なぜだろう。

自分に戒めていた動きを僕は止められない。

気づけば窓はそこにあった。

その人も。

音を立てず近づいたつもりだった。

だがその人が振り向く。

僕は息を止めた。

身体をこわばらせ毛が逆立つのを感じた。

でもその人から目が離せなかった。

月の光に照らされる美しいその顔。

 

 

 

その人は目を見開いて小さく声をあげた。

 

「あっ、ちょっと待って!」

 

その人がカーテンの向こうに隠れる。

僕は身動きできない。

その人をもう一度見たい。

女の人がお皿を持って再び現れる。

 

「おなかすいてるでしょ?

 食べて。

 食べていいんだよ。

 どうぞ。」

 

穏やかで心地よい声。

いい匂いに僕はうっとりした。

でも僕は動けない。

心を許してはいけない。

 

「おいしいよ。

 食べて。

 ほらちょっと離れてるから。

 大丈夫。

 はい、どうぞ。」

 

その人は少し後ずさる。

その微笑みは輝いている。

僕は鼻先をお皿に近づける。

その人から目を離さずに。

ほんの少し触れてみる。

ああ、抗えない。

口に入れる。

止まらない。

 

 

 

ダメだ!

僕は走る。

ダメだダメだダメだ。

遠くへ行かなければ。

でも、僕は立ち止り振り返った。

その人の顔をもう一度見たかった。

美しい微笑みはまだ僕を見ている。

少し安心して僕はまた闇に入った。

 

 

 

僕は毎晩その窓を訪ねた。

その人も毎晩僕を待っていた。

いつもの美しい微笑み。

いつものお皿。

僕は警戒を解かない。

でもお皿が空になる頃僕は少し油断した。

その人が前より少し近くにいる。

でもまだ大丈夫だ。

お皿が空になればここにいる意味はない。

僕は立ち去る。

いつも一度だけ振り返る。

その人の微笑みを見る。

 

 

 

気づくとその人はすぐそこにいた。

その人の息がかかる。

僕は警戒する。

でももう懐かしい匂いになっている。

微笑みと同じように美しい匂い。

僕は逃げない。

なぜだか自分でもわからない。

でももう少しここにいよう。

もう少し。

手が触れる。

ほんの少し。

身体がこわばる。

その人を睨む。

でもその微笑みに僕は動けない。

指先から僕の背中に温かさが移る。

はじめての感触。

心地いい。

 

 

 

思わず目を閉じる。

ダメだ!

僕の手が出る。

宙を切る。

その人は少し驚く。

そして笑いながら手を引っ込める。

 

「怒ったの?

 ふふ。

 怖がらないで。

 あなたが好きよ。

 誰よりも美しい猫だわ。

 あなたが大好きなの。」

 

僕は庭に出る。

草むらに身体を沈める。

しばらく窓を見ている。

その人の指の感触を思い浮かべる。

背中に残る微かな匂いを嗅ぐ。

そしてまた闇へ帰る。

 

 

 

僕には傷がある。

もう随分前に深くえぐられた。

でも今も癒えない生々しい傷。

いつも少し血が滲んでいる。

触れると飛び上がるほど痛い。

誰にも見られてはいけない。

知られたら危険だ。

闇にいれば気づかれることはない。

明るい場所ではいつもおなかを隠した。

 

 

 

その人がいつものように僕を撫でる。

僕はもういつも待っている。

闇の中で何度も想ったもの。

今それがここにある。

その人の手、指、匂い。

 

「おいしいね。

 たくさん食べてね。

 ねえ、どこでこんなに汚れるの?

 いつもどこで過ごしてるのかな。

 ずっとここにいればいいのにね。」

 

いつものように僕はその音に耳を澄ます。

うっとりする。

僕にだけ語りかける調べ。

 

「あっ、なに?」

 

旋律がトーンを変える。

 

「どうしたの?

 これ?

 ひどいじゃない!

 ああ、ひどい。」

 

僕は油断した。

傷を見つけられてしまった。

 

「大丈夫なの?

 いつやったの?

 誰にやられたの?

 痛いの?

 痛いよね。

 ああ、かわいそうに。

 ああ、どうしよう。」

 

その人はしばらくオロオロする。

傷を覗き込もうとする。

僕は傷を隠す。

少し経つとその人は落ち着いた声で言った。

 

「私が癒してあげる。

 今は無理でもいつか必ず。

 あなたは特別な猫だもの。

 私の特別な大切な大切な猫。

 安心していいよ。

 いつも傍にいるから。

 あなたもいつもここに来てくれるでしょう?」

 

戸惑いながらその人の顔を見つめる。

瞳に写る僕の姿がゆらゆらと揺れる。

あなたの目に滴が光っている。

 

 

 

― ああ僕は

 僕はあなたの傍にいるよ。

 いつだって。

 いつまででも。

 闇に隠れているときだって

 いつもあなたを想ってる。

 僕はもうずっと前からあなたのものだ。

 

 

 

いつものように僕たちは一緒にいた。

窓の外は相変わらず闇に包まれていた。

でも二人のまわりだけは明るかった。

窓から吹き抜ける風も寒くはなかった。

僕たちは何度も一緒に月を見上げた。

 

「あなたと私は満月。

 ふたりはまあるく一つなの。

 ずっとずっと昔からね。

 世界のはじまりからずっと。

 私たちは丸。

 何も私たちを引き離せない。

 これからずっと二人で月を見るの。」

 

僕はその美しい旋律に身を委ねた。

 

 

 

僕はその人の昼の顔を知らない。

他の猫と何を話したのかも。

でもそんなことどうでも良かった。

 

― 僕たちは丸。

 

僕は声に出してみた。

それはどんな考えよりも素敵だった。

本当は僕も同じことを考えていた。

ただ言い出せなかっただけ。

もうずっと前から僕は思っていたんだ。

でも僕は待っていた。

本当は昼間も何度もここに来たんだ。

草むらに隠れて見つめていたんだよ。

あなたの姿のない窓を。

締め付けられるような胸の甘さとともに

ただあなたを待っていたんだ。

 

 

 

僕はまるで初めて見たように

小さな草や虫や木々を渡る風を見た。

名も知らぬ小さな花をいつまでも眺め

木漏れ日に濡れた身体を乾かした。

僕は少し背を伸ばして歩くようになり

自分の影とダンスもした。

目に映るものが活き活きと輝いて

あなたを待つ時間も穏やかだった。

望めるはずのなかったものが

今僕の傍にある。

これから先ずっと。

 

 

 

ふたりの夜は

いつも素敵だった。

窓の灯り。

虫の声。

風のざわめき。

あなたの匂い。

いつまでも続いて欲しい。

そう願いさえすれば

それはいつまでも続く。

あなたの瞳はそう教えた。

 

 

 

満月。

その夜僕の傷はいつもより痛んだ。

少し動くといつもより血が多く出た。

僕はあなたのもとへと急いだ。

傍にいられれば安心だから。

君は僕の様子にすぐに気づいた。

僕も隠しはしなかった。

でも大丈夫だって顔をした。

 

「大丈夫じゃないわ。

 そうでしょ?

 苦しそうだよ。

 見せてちょうだい。

 いいでしょ。

 あなたを癒したいの。

 言ったでしょ。」

 

 

 

僕はもう隠したりはしなかった。

もうあなたに見てもらいたかった。

これまでも少しあなたに傷を触らせた。

そのたび僕は小さな呻き声をあげた。

あなたは手をひっこめた。

でも僕は夢見ていた。

この傷が癒えて僕の身が軽くなったならと。

僕はもっと君を笑わせることが出来る。

あの美しい微笑みをいつだって見つめていられる。

 

 

 

ただ傷はあまりにも深かった。

あまりにも長い時間僕とともにいた。

僕は多くを失った。

この傷を得る代わりに。

何もかも捨てた。

僕は僕を台無しにした。

本当のひとり。

ひとりぼっち。

何も見えない闇。

胸の奥を掻きむしられるような痛み。

苦しい。

今夜は特に。

でも僕には今、あなたがいる。

 

 

 

あなたは心配して傷ばかり見ている。

しばらくしてあなたの手が伸びる。

僕はいつものように撫でられると思った。

でも今夜は違った。

あなたは何かを心に決めていた。

そして

僕の傷を強く触った。

 

「もう本当に治さなきゃ。」

 

僕の身体に激しい痛みが走る。

頭の先から焼けた杭が差し込まれるみたいに。

 

 

 

「痛い!」

 

それは僕の声ではなかった。

激しい痛みに我を忘れた僕は

思わず君に爪を立てたのだった。

血が数滴落ちた。

僕がそれに気づくと同時に

あなたは言った。

 

「痛いよ。

 すごく痛い。

 こんなに血が出ちゃったよ。

 どうして私を傷つけるの?

 あなたの味方なのに。

 あなたの傷を癒したかったのに。

 わかっている癖に!

 どうして私を攻撃するの?

 どうしてその傷に触らせてくれないの?

 私はあなたのことが好きよ。

 あなたといると幸せだと思ったの。

 でも今はどうだかわからない。

 私は私が好きなの。

 だから私を傷つけるものを許せない。

 あなたは私を傷つけたのよ。

 痛くてたまらない。

 痛いのはイヤ!

 痛いことをするあなたは要らない。

 一緒にいたくない。」

 

窓は閉まり、灯りは消えた。

あなたの影はもう見えない。

暗闇の向こうにさえあなたはいない。

 

 

 

あなたを傷つけるなんて思いもしなかった。

でもとても痛かったんだ。

傷から血が吹き出していく。

前よりもずっと多く。

もういくらでも流れればいい。

誰にも知られぬまま。

 

 

 

― あなたを笑わせたかった。

 大切なあなた。

 そして信じていたよ。

 あなただけが僕を癒せると。

 

 

 

夜空には満月がポツンと浮かんでいる。

何度も見た月。

変わらないはずの光。

 

「私たちは丸。」

 

僕はたくさんの言葉を口ごもる。

あなたの庭をしばらくうろつく。

もう一度だけ窓を見る。

そこにはもう闇しかない。

 

 

 

僕はもう二度と声を出さない。

これが最後だ。

 

 

 

月に向かって小さくひとつ

「ニャア」

と鳴く。

 

 

 

————————–

もしも「僕」が言葉を持たぬ本当の猫だったなら

こんな結末にはならないことを俺は十分知っている。

「あなた」はどんな痛みをを負っても

変わらぬ微笑みで彼を撫で続けるだろう。

そのことに疑いはない。

猫を待ちわびる話も

猫を優しく見守っている話も

聞いているのが俺はとても好きだったんだよ。

 

「僕」はきっと本当の猫になりたいのだろう。

言葉を持っていること。

生きるために心が必要であること。

心を伝えようと時に叫ぶこと。

それらこそが「あなた」を傷つけるのだから。

どんなに注意深く「あなた」を触っても

心には自分でも扱えないような痛みがあるのだから。

でも本当の猫であれば「あなた」を傷つけることはない。

 

猫になった「僕」がもう「僕」ではなかったとしても

「僕」は本当の猫になりたいと切望するだろう。

「あなた」のために「僕」を捨てられるほど

「僕」はあなたの傍にいたいのだから。

「あなた」が愛しているものが本当は何なのか

それを問う必要もない。

それほどまでに「あなた」は

「僕」の一部なのだから。

「僕」は「あなた」と丸であることを

最初からずっと信じているのだから。

「僕」は「僕」を捨ててしまいたい。

もしそれが許されることならば。

「僕」が「僕」だけのものであるならば。

 

だが現実は違う。

残酷で冷たく哀しいけれど

「僕」は「僕」でいることで

護らなければならないものがあるのだ。

「僕」には

「僕」を何度台無しにしてでも

護るべき美しいものが

たったひとつだけある。

「あなた」は本当は

本当には

それを知らない。

 

 

「僕」はもう備えなければならないのだろう。

 

 

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